1. はじめに
『シルバーバーチの霊訓』に触れ、私は地上の宗教が抱える問題と、霊的真理に基づく生き方について深く考えるようになりました。
シルバーバーチは、「どの宗教も真理の光のほんの一条しか見ておらず、その光すら人間的欲望や狂信によって歪められている」(『シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音』p.112)と述べ、宗教が本来の役割を見失っていると批判します。
特にキリスト教の教義や歴史、日本の新宗教やカルト問題を振り返ると、この言葉の重みが心に響きます。
私は、宗教が形式や権力に囚われず、霊的成長のための実践を重視すべきだと確信しています。
2. イエスの真実とキリスト教の教義
【私の疑問とイエスの真実】
キリスト教の「イエスは神の子であり、人類の罪を贖うために地上に生まれた」という教義に、私は長年疑問を抱いてきました。
シルバーバーチによれば、イエスが地上に生まれた目的は、物質より霊を優先し、利他愛を通じて「霊的成長」を達成する自力救済の道を説くためだったとされています。
また、2021年に地上再臨を果たしたイエス自らが、地上の宗教を「霊的無知の負の遺産」と断じたことに、深い感銘を受けました。
キリスト教徒は「イエスを信じれば救われる」と主張し、スピリチュアリズムを批判します。しかし、イエスが神格化された背景を振り返ると、キリスト教の教義には疑問を抱かざるを得ません。
【キリスト教教義の歴史的形成】 キリスト教の教義、特に「イエスは神の子」という主張は、歴史的な背景の中で少しずつ形成されました。イエスの昇天後、弟子たちの伝道でキリスト教はローマ帝国内で広がり、313年の「ミラノ勅令」で、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのです。 これにより、教会は迫害から解放され、土地や寄付、税の免除などの特権を得ました。 司教たちは有力者として扱われ、教会は政治的な影響力を持ち始めました。
一方で、キリスト教の拡大に伴い、「イエスはただの人間か、それとも神の子か」という論争が起きました。教会の分裂を心配したコンスタンティヌス帝は、325年にニケーア公会議を開催。各地の教会指導者たちが集まり、討論を行いました。 その結果、アタナシウス派の「イエスは神の子であり、神と同等」という主張が勝利。 アリウス派の「イエスはただの人間」という見解は異端とされました。
しかし、この決定は新たな問題を生みました。「イエスが神の子なら、神と神の子という複数の神が存在するのか」という疑問です。これを解決するため、ニケーア公会議やその後の議論で「三位一体(さんみいったい)」の教義が確立されました。 これは、381年のコンスタンティノープル公会議でより明確にまとめられた考え方で、「父なる神、イエス(神の子)、聖霊は一つでありながら、それぞれ異なる役割を持つ」というものです。
この教義は聖書に直接書かれておらず、聖書の神学的な解釈に基づくものです。それでも、これが正統派の教義として定着しました。
【教会の権力化と分裂】
キリスト教が政治と結びついたことで、教会はさらに特権を拡大しました。 380年の「テサロニケ勅令」でキリスト教がローマ帝国の国教と定められ、教会は税の免除範囲の拡大や裁判権を獲得し、司教たちは政治家のような権力を持つようになりました。しかし、権力や富などの物質的な欲望に溺れた教会は、イエスのシンプルな教えから離れ、内部の争いが絶えませんでした。
さらに、三位一体や聖書の解釈をめぐる意見の違いから、アリウス派、ネストリウス派、単性論派などの分派が生まれました。キリスト教は分裂を繰り返し、政治の力で統一を強制した結果、異端弾圧がさらに分裂を深め、中世を通じて宗派間の争いが続きました。 まさに「異端は異教より憎い」と言われるように、内部の対立は激しい衝突を招きました。近親憎悪を思わせるような、身内の醜い争いが続いたのです。
例えば、三十年戦争(1618~1648年)は、カトリックとプロテスタントの対立が政治的・宗教的な要因と絡み合い、ヨーロッパを荒廃させました。特に、戦争の主戦場となったドイツでは、人口の約3分の1が失われるほどの惨事になりました。 この過程で、イエスの教え――「心を尽くして神を愛し、自分自身を愛するように(真実の愛で)隣人を愛せよ」――は、教会の権力闘争や物質的な欲望に埋もれていきました。
私は、この歴史がシルバーバーチの言う「人間的夾雑物」――権力への渇望や組織の利害――にまみれた結果だと感じます。キリスト教の歴史は、霊的真理から離れた宗教が社会に混乱と分断をもたらす例だと考えます。
3. 日本の新宗教とカルト問題
日本でも、新宗教やカルト問題が注目されます。戦後の混乱期に生まれた多くの新宗教は、仏教や神道の要素を取り入れ、個人の救いや幸福を約束しますが、一部は過剰な寄付や閉鎖的な教義で社会問題を引き起こしました。1995年の地下鉄サリン事件は、特定の新宗教団体が霊的真理から逸脱し、暴力に至った極端な例です。私は、こうした団体がシルバーバーチの言う「人のためになる行為」ではなく、指導者の権力や物質的利益を優先した結果、社会に害を及ぼしたと感じます。
伝統的な宗教への信頼が薄れる中、新宗教が孤立した人々を偽りの絆で巧みに引き込み、温かな居場所を装いつつも、誤った教義で信者を縛る現実に心を痛めます。
4. 宗教の歪みと社会への影響
シルバーバーチの言葉、「宗教とは人のためになる行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるもの」(『シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来』p.244)は、宗教の真の役割を教えてくれました。
しかし、地上の宗教は、「一部とはいえ真実である真理」が「人間的夾雑物」に埋もれ、物質中心主義で歪められてきました(『シルバーバーチの霊訓(五)』p.57)。
キリスト教の十字軍、イスラム教のスンニ派とシーア派の対立、ヒンドゥー教とイスラム教の地域紛争は、教義の歪みが憎悪や分断を生み、罪のない人々に犠牲を強いている例です。
特に、熱心な信者が「神の言葉」として押し付けられた教義に縛られ、異なる信念を敵視する姿に危機感を覚えます。この歪みは、地上の人生だけでなく、死後にまで悪影響を及ぼし、霊的成長を妨げるとシルバーバーチは説きます。
5. 霊的真理と真実の愛
宗教とは、儀式や教義ではなく、日常の中で霊的真理・霊的知識に基づいて霊的成長を実践する行為であると私は考えます。物質的な欲望を超え、「霊的成長」という人間にとって最も価値ある宝を手に入れるためには、それに見合う努力が必要です。そして、そのために何をすべきかを示し、人類を調和へと導くことこそ、宗教本来の役割です。地上のすべての宗教は、霊的真理を正しく理解し、実践することに立ち返るべきだと確信しています。
しかし、既存の宗教組織に変革を期待するのは難しい。だからこそ、地上の宗教指導者は“積み上げてきた負の遺産(霊的無知からつくられた教義と宗教組織)をすべて壊し、捨て去ったうえで、摂理にそって生まれ変わるように”と呼びかけるイエスの真実の愛が込められたメッセージに、真摯に耳を傾けるべきだと強く思います。
「スピリチュアリズム・インフォメーション」No.39とNo.40で詳しく述べられていますが、20世紀以降のローマ教皇は、霊界で全員がキリスト教を捨て去り、スピリチュアリストとしてイエスのもとで働いています。教皇たちの決意表明は何度読んでも、深い感激を覚えます。
負の遺産を捨て去った宗教指導者と共に、私たち一人ひとりが霊主肉従の努力、利他愛の実践、苦しみの甘受を実践し、霊的成長を追求することで、真のスピリチュアリズムは平和と調和の礎になると信じています。
※リンク(引用)については、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています。

