霊的真理についての学びを深めれば深めるほど、そのスケールの大きさに圧倒されます。
「井の中の蛙大海を知らず」とは、スピリチュアリズムに巡り合う前の自分に他ならないと思います。

地上の「死」は通過点に過ぎず、人間の”本体”である「霊」は、個性を持ったまま霊界で永遠に存在すること。
私たちは、「前世のカルマ清算」と「霊的成長」という2つの目的のために、今地上で生活していること。
地上人生での生き方や考え方が、(死後の)永遠の人生に重大な影響を及ぼすこと。
現在の地上には”真実の宗教”は存在しないこと。
そして何より、地上にイエスが再臨していること。

どれひとつとっても、既成宗教が明確な回答を示せなかったことばかりです。
とはいっても、これらは「物的根拠」や「科学的根拠」で証明できるものではありません。
また、科学技術がどれほど進歩しても、次元を異にする霊界の事象を、地上の物質や科学で証明することは不可能です。

地上人がスピリチュアリズムを受け入れることができるか否かは、各々の”霊性”と”理性”に委ねられています。
一方、物質世界である地上では、最新の「物的根拠」や「科学的根拠」に基づいてのみ物事の真実が判断できる、という意見が大多数を占めています。
そのため、スピリチュアリズムを正しく受け入れることができた地上人は、まだ少数にとどまっています。

また、最近では、”スピリチュアリズム内部の敵”が「本当にイエスが地上に再臨しているのなら、地上世界の悲惨な状況をいつまでも放置しておくはずがない」と的外れなことを主張し、イエスの地上再臨を否定しているケースもあります。
もっともこれは、「本当に神が存在しているのなら、・・・・・」という決まり表現で、神の存在を否定する唯物論者と同様に、頑なに自分の意見や我流のスピリチュアリズムを優先したいと願う執着心以外の何物でもありません。

地上世界は、イエスの地上再臨によって霊的新時代―「真のスピリチュアリズム」―の幕開けを迎えています。
私たちスピリチュアリストは、いかなる批判に対しても臆することはありません。
そのため「スピリチュアリズムの思想体系」に関する学びを深め、「霊的真理」で理論武装すること。
私自身そのように努めてきましたが、霊的真理の学習を通して改めて認識したことがあります。

それが「祈りの実践」、祈ることの大切さです。

私たちは、物質中心主義や利己主義が蔓延する地上世界で生活しています。
日々の生活の糧を得るためには、否応なく働かなければなりません。
そして地上世界では、性格も個性も霊性も異なる様々な人間が生活しています。

当然のことながら、それらの人間で構成される会社(組織)では、利害関係の衝突による部署間の対立、部署内の摩擦といった出来事が日常的に発生します。霊的結びつきを自覚していない集団・組織では、常に正論が通るとは限りません。
サラリーマンであれば、会議で正論を主張した結果、その後の業務遂行上で好ましからざる事態を招いてしまった、あるいは閑職に追いやられてしまった、という苦い?経験をお持ちの方も多いと思います。また(サラリーマンの場合)、家庭の時間よりも会社で過ごす時間の方がはるかに長いのです。

そのような状況で毎日を過ごしていると、知らず知らずのうちに精神的ストレスが蓄積し、スピリチュアリストであっても、肉主霊従の状態に陥ってしまうおそれがあります。
スピリチュアリズムを知らない人々は、ギャンブルやアルコールなどの刹那的快楽で、ストレス発散を発散しようとします。私自身、スピリチュアリズムに導かれる前までは、趣味に没頭することでストレスを発散していました。しかし、それはその場限りの”物質的な快楽”に過ぎず、肉主霊従の根本的な解決にはなりません。

シルバーバーチは霊訓を通して何度も「祈ること」の大切さを訴えています。
ところが、ほとんどの日本人にとって”神仏を拝む”ことはあっても、”神に祈りをささげる”という行為には馴染みがありません。
また、会社組織でそれなりの経験を積んだ人間には、「祈ること」と「弱音を吐くこと」とを同一視する傾向があります。私自身もスピリチュアリズムに導かれた当初は、そのように誤解しており、しばらくの間は「祈ること」に抵抗がありました。

しかし、シルバーバーチの教えによって、「祈り」の意味や必要性を正しく理解することができました。
スピリチュアリストは”スピリチュアリズムの信仰者”でなければなりません。
信仰者である以上、霊の親である”神・大霊”への直接の語りかけである「祈り」を欠かすことはできません。
スピリチュアリストにとって「霊的真理の学習」と「祈りの実践」は”車輪の両輪”なのです。

祈りの重要性を認識した私が自信を持って言えることは、以下のとおりです。
・祈りの実践によって、日常のストレスで疲れた”霊の心”に活力が与えられること
・「霊主肉従」である本来の状態に立ち戻り、「霊的成長」が促進されること

時間に追われ、祈りの時間が取れないとき、会社で一人残業をしているとき、ストレスが溜まっているなと感じたときなどは、守護霊の存在を意識し、目を閉じて静かに「天の親様」と繰り返すだけで、心が落ち着き、意識が引き上げられていくことを実感できるようになりました。

祈りを実践することでどのような結果がもたらされるのかについては、スピリチュアリストであっても各々霊的成長度か異なるため一概には言えませんが、祈りの実践で「霊的成長」が促進されるということに間違いはありません。

「価値ある人生」とは「霊的成長」を実践する人生です。
但し、自らの”霊的成長度”を自分自身で”計測する”ことはできません。

しかし、死に臨んで「物質的には恵まれなかったが、スピリチュアリストとしては悔いが残らない人生だった」と回想できれば、それは「価値ある人生」、「霊的成長」を実践できた人生であったと思います。

※リンク(引用)については、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています