スピリチュアリズムに出会うまで

私が「スピリチュアリズム普及会」(当時は「心の道場」)のホームページを通して、スピリチュアリズムの神髄である「シルバーバー チの霊訓」に巡り合うことができたのは、平成18年の春頃でした。スピリチュアリズムに出会うまでの私は、真言密教の「六大」の思想に共鳴してはいましたが、どちらかといえば無神論に近い立場でした。

宗教について興味や関心が無かったのか、といえば必ずしもそうではありません。しかし、形骸化して組織の維持に汲汲とする従来の宗教に惹かれるものはなく、高額献金、霊感商法、後継者争い、分派独立等が付き物の新興宗教には、宗教以前に俗臭芬々たるものを感じていました。特に新興宗教とは、人々の悩みや無知に付け込み、”先祖の因縁※”や”水子の祟り”などを持ち出してことさら不安を煽り立て、二束三文の物品を高価で売り付けたり、洗脳支配により献金や(伝道という名目の)無償労働を強要する「教祖の集金ツール」に過ぎず、「宗教とは人間が作るのである」というマルクスの指摘は実に正鵠を得ていると認識していました。(カリスマ的教祖、高額献金、巨大建築物、霊感商法、分派独立などのキーワードがひとつでも当てはまる宗教については、今もその認識に変わりありませんが)

また、その頃 「スピリチュアル」という聞きなれない言葉が流行り始めていました。「スピリチュアル」とカタカナで表現すると、新鮮で何かしら高貴なイメージを抱きますが、その実態は昭和時代の心霊番組でブームとなった「守護霊」や「前世」などを現代風にアレンジした癒し系以外の何物でもなく、また「スピリチュアリズム」に関しても苫米地英人氏の著書を持ち出すまでもなく、同様なものであろうと考えていました。


平成8年頃、新興宗教の関係者ではありませんが、霊能者と称する人物から「あなたには何代か前の先祖の女性の霊が憑いている・・・」と言われたことがあります。しかし、先祖の数というのは、世代を遡れば遡るほど実に膨大な数になります。自分のn代前の先祖の数は2のn乗で計算できます。自分の一代前、つまり両親は2の1乗で2人。2代前の祖父母は2の2乗、2×2=4人。3代前の曾祖父母は2の3乗、2×2×2=8人。そのようにn代前の先祖を計算すると、10代前の先祖の数は1024人、20代前では仙台市の人口にほぼ匹敵する1,048,576人もの先祖が存在することになります。その霊能者に「何代前の先祖か、また父方か母方かどちらの先祖か」と尋ねても、当然ながら明確は回答は得られず、実に漠然とした「霊言」でした。しかし、「霊能者」の話し方や表情が実に真に迫ったものであったことが印象に残っています。

シルバーバーチの画期的な死後世界観

唯物論者は例外として、誰しも身近な人の死を経験したり、死期が間近に迫った肉親を目の当たりにしたときには、否応なく「死」の持つ意味について考えさせられます。私の場合は、インターネットで「死後の世界観」に関連する何か・・・おそらく当時乳がん末期であった母のことが気になっていたのだと思います・・・を検索していて、「心の道場」のサイトに導かれ、そこでシルバーバーチの霊訓で示された画期的な死後世界観について詳しく知ることができました。そして、同時にマスコミ等で盛んに喧伝されていた「スピリチュアル」や「スピリチュアリズム」とは比ぶべくもない、真実の「スピリチュアリズム」を知ることになりました。

「死後世界観」一つを取ってみても、これまでいろいろな宗教で説かれてきたとは全く異なる見解が示されており、その内容に驚愕するとともに名状しがたい”何か”を直感し、仕事の合間や休日には、サイトのニューズ・レターやシルバーバーチの霊訓をはじめとする電子書籍を熟読し、「スピリチュアリズム」に関する理解度を深めていきました。

死後の世界は存在するのか?神とはいかなる存在なのか?人生の目的とは?ペットは死後どうなるのか?真の宗教とは何か?といった従来の宗教ではうやむやにされていたり、回答を避けていたこれらの疑問に対し、シルバーバーチはその霊訓の中で明確かつ詳細に説明しています。特にシルバーバーチの「死は自由をもたらすものであること、他界した本人は地上で発揮せずに終わった内部の霊性を発揮する機会に満ちた世界での生活を始めたことを知って喜んでいる」とのくだりは圧巻であり、死にまつわる陰湿な古い観念を打ち砕いて、死は「肉体からの解放」であることを明らかにしてくれました。

「シルバーバーチ読書会」への参加

地上世界では「神」や「霊界」の存在について、誰もが納得できるような定理や数式等を用いて具体的に証明することは不可能です。「神」や「霊界」の認識は、いわゆる「頭」で理解して納得するものではなく、一人ひとりの直観力や理性の活用によってなされます。そのため、「シルバーバーチの霊訓」に巡り合ったとしても、その内容が正しいと判断できる「段階や時期」に達していない限り、それらの存在について得心することは困難です。 

私自身、ニューズ・レターやシルバーバーチの霊訓を熟読するに従い、”真のスピリチュアリズム”に対する正しい理解が深まり、徐々にではありますが、真理の実践にも意識が向くようになりした。
しかし、シルバーバーチの霊訓を読んでいると、「この箇所は何を意味しているのだろうか?」「この部分は前後の文脈が整合していないのではないか?」などの疑問も生じてきました。
  

そこで、転職を機に「関西シルバーバーチ読書会」(現・大阪スピリチュアリズム・サークル「シルバーバーチ読書会」)に参加を申し込み、本格的に「シルバーバーチの霊訓」について学習をすることになりました。この読書会は、シルバーバーチの霊訓に基づく霊的真理の正しい理解と、各自の実践とを目的に開催されている非常に有意義な学習の集いです。

スピリチュアリズムは、霊界主導の地球人類救済計画であり、その救済方法は、霊界から降ろされた霊的真理を一人ひとりが内容を理解し、それを実践するという「自力救済」の形で進展してゆきます。主役はあくまで霊界の高級霊団であり、霊的真理の内容はシルバーバーチの霊訓で語り尽くされています。 

スピリチュアリズムには、地上の宗教のような教祖も教義も献金も巨大な建造物も全く必要ありません。ただ、シルバーバーチが伝えてくれた霊的真理・霊的知識は膨大な量であり、その内容も多岐にわたっているため、スピリチュアリズムを正しく理解するためには、霊的真理の分類・体系化に基づく学習が必要となります。1月と8月を除き毎月一回開催されている読書会は、その趣旨に沿って開催されているため、私にとって常に貴重な学びの場となっています。

苦しみや困難を通しての霊的成長

現実に地上世界で生活し、日々の業務や雑事の処理に追われていると、知らず知らずのうちに、よからぬ思いが沸き起こり意識が「肉主霊従」の状態に傾いてしまいます。特にサラリーマン社会では常に様々な問題や軋轢など生じ、それらの対応に追わているうちに本来の業務がなおざりになり、ストレスや焦燥感を抱えたまま、いたずらに時間だけが過ぎてゆく・・・という経験も珍しくありません。 また、地上世界では知性も霊性も異なる人々が同じ地平で生活しているため、仕事以外でも理不尽な出来事や人間関係での不合理は避けて通ることはできません。

スピリチュアリズムは、そういった日々を送る中での霊的真理の実践です。地上生活の目的は、「霊的成長を実現するため」という一言に尽きます。そして地上世界では、苦しみや困難といった出来事が必ず生じるということこそが、地上世界が霊的成長のための「トレーニングセンター」に他ならないということです。 

スピリチュアリストとして歩む決心をしていても、現実に困難な事象に遭遇した場合には、やはり少なからず動揺してしてしまう場合もあります。困難を前にして動揺するということ自体、まだまだスピリチュアリストとしては未熟者と誹りを免れませんが、困難に遭遇した時には、「スピリチュアリズム普及会」のサイトに掲載されている、霊的真理と霊的視野によるプラス思考ニューズレター第17号を繰り返し読んで霊的視野を鼓舞しようと努めてきました。

スピリチュアリズムに出会って十数年が経過しました。霊的成長を目標として、遅々たる歩み・・・三歩前進二歩後退のような・・・ではありますが、スピリチュアリストとして刻苦精励を重ねてゆきたいと決意しています。