長年の疑問―「死後の世界」の存在

長年サラリーマン生活を送っていると、諸々の悩みや相談事も身内より気心の知れた会社の同僚に持ち掛けるケースも特段珍しいことではありません。しかし、休憩時間などにお互いの趣味や家庭の話題で盛り上がることはよくあっても、「死後の世界は実在するのか」、「輪廻転生といった生まれ変わりはあるのだろうか?」、「神とはいかなる存在なのか」といった「霊的な疑問」について素面で話し合うことはほとんどないと思います。

そのような話題を持ち出したりすれば、「何処かの新興宗教に入信したのか?」、「仕事や家庭のことで大きな悩みを抱えているのでは?」、「以前ブームになった怪しからぬテレビ番組に感化され続けているのではないか?」という眼で見られてしまい、以降の業務に多少なりとも支障をきたす可能性が否定できません。当然のことながら、家庭内でそのような話題を出した場合、家族がどのような反応を示すかについては想像に難くありません。

なぜ人々は「死後の世界」や「神」に関する話題を避けるのでしょうか? 先に述べた理由以外にも、「死について話題にするのは縁起が悪い」、「科学で証明されていない死後の世界や神は想像上の産物に過ぎない」、「いくら考えても答えが出せない問題に悩むだけ時間の無駄」「そんなことより、仕事や趣味に打ち込んで充実した毎日を送ればよい」等々の理由はあるでしょう。

しかし、人間はいつか必ず死を迎えます。公の場では無関心を装い、故意に話題にすることを避けてはいても、「死後の世界」の有無に関しては、誰もが明確な回答を望んでいるのではないでしょうか。慌ただしい毎日を送る中でも、私自身それは折に触れて思い起こされる疑問でした。 

シルバーバーチが教えてくれた「死後の世界」

「死後の世界は厳然として存在する。現世の”死”は通過点に過ぎず、人間は死後、本来の世界である霊界で永遠に生き続ける。」
「神もまた実在する。だが、これまで人間は真実の神についての正しい認識を持っていなかった。」 シルバーバーチの霊訓と巡り合い、感銘を受けた内容は何か?と自問した場合、真っ先に思い浮かぶのはこの二つです。
もちろん、「すべての物事が因果関係の原理に従って機能していること」や「地上世界の悲劇の根本原因は何か」など、強く印象に残る内容は他にも多くありますが、感銘を受けたという点では先ず「霊界の存在」、次に「真実の神の姿」に尽きます。


まだ小学校に上がる前、父の実家で「人間は死んだらどうなる?」と祖母によく尋ねたものです。その時、祖母が語ってくれた死出の山、賽の河原、三途の川、奪衣婆、閻魔大王、浄玻璃の鏡などの不気味な話と、旧家のうす暗い仏間の独特の雰囲気が交じり合い、死や死後の世界に対するイメージは、何かおどろおどろしいものとして長く記憶に刻まれました。

長ずるにつれ、そのような話は現世で正しく生きるための教訓として、祖母が子供向けの法話集などから引用して話してくれたものだと理解できましたが、肝心の「人間は死んだらどうなる?」という疑問の回答は、哲学書や精神世界関係の書籍でも明確な回答が得られず、社会人になってからは真言密教の六大の思想にはある程度納得しながらも、唯物論的な立場であえてその問題を封印してきたように思います。

そんな私でしたが、スピリチュアリズム普及会のウェブサイトでシルバーバーチの霊訓に巡り合い、それらの回答―「死後の世界」「神の存在」―をはじめとする様々な霊的真理を知ることができました。その時の感動と興奮は十数年が経過した今でもはっきりと覚えています。シルバーバーチによって明らかにされた「死生観」を知ったことで、これまで抱いていた「死」に対する陰湿な観念が覆されたばかりでなく、「死」に対する恐れを完全に払拭することができました。

現世の「死」は、肉体という牢獄からの解放であり、人間は死後も霊界で永遠に生き続けること。永遠に生き続けるだけではなく、終わりなき霊的成長の道を歩んでゆくこと。神の子供として創造された人間には「死」という終わりは決してやってこないこと。愛があれば肉親やペットとも死後必ず再会できること。地上人生の目的は霊的成長であり、それを目指して努力すれば霊界での生活は素晴らしいものになること

そして、霊界の風景や諸相に
ついてはシルバーバーチでさえ、地上の言語では到底表現不可能と言わしめるほどで、どれほど壮麗な世界であるかについては想像すらできません。
また、地上人が死後最初に赴く幽界の実情やそこでの純化プロセス、霊界への移行といった内容は、スピリチュアリズム普及会の第2公式サイトで全文公開されている「500に及ぶあの世からの現地報告」でも詳しく述べられています。この書籍によって、死の直後の様子や幽界での具体的な生活について把握することができました。

「死は恐怖でも悲劇でもなく喜びであり、祝福すべき出来事である」という「死の真相」を知れば、100年にも満たない地上人生で虚飾に過ぎない物欲、金銭欲、名誉欲、権勢欲などを追い求めることの虚しさや無意味さを十分理解することができます。
この画期的な死後世界観こそ、シルバーバーチによってもたらされた恩恵以外の何物でもありません。

「祝福されるべき死を迎えるために、今後の人生を物欲に問わられず、利他的な歩みを心掛けよう」と決意できたのも、シルバーバーチの霊訓のおかげです。「死後の世界」は決してふわふわとして霞がかかった朧げな世界などではではなく、地上世界以上にしっかりとした実在感がある世界です。
また、本好きの私にとって、驚くべき事実が明らかにされている箇所もありました。地上で出版されたすべての本のコピーが霊界の図書館に存在するという事実! 引越しの度に泣く泣く手放した本、高価で購入をためらっているうちに絶版になってしまった本、置き場所に困って処分してしまった本、長年探し求めても国立国会図書館にすら蔵書が見当たらない本・・・。それらの本も全て霊界の図書館に蔵書されている! 実に素晴らしいことではありませんか。

地上世界で生きることの意味

地上世界は、平家物語や方丈記の冒頭のように諸行無常、有為転変の世界です。そのような地上世界であっても、そこで生活している私たちにとって、そこは五感で実感できる物質が存在する現実の世界そのものです。
しかし、シルバーバーチはこの地上世界は実在の世界ではないと断言しています。

「物質の世界に生きておられるあなた方は、実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。ご自分を表現しておられるその身体、地上という大地、住んでおられる住居、口にされる食べもの―どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それらはことごとく”影”であって”光”ではないことを申し上げねばなりません。あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。したがってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解できないのは当然です。」
( A.W.オースティン編 近藤千雄訳 『シルバーバーチの霊訓(五)』  スピリチュアリズム普及会 P69-70)

シルバーバーチが地上世界は影に過ぎないと述べている箇所は他にも多くありますが、この引用部分は「視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚」の感覚でしか外界の事物を感応できない私たち地上人の限界を端的に示しています。霊界は五感の想像を超えた世界である以上、地上で生きている間はその素晴らしさを実感することは不可能です。

地上人生は、霊界での生活に向けた準備期間であり、また地上世界とは、「死」という卒業までに霊主肉従の努力と利他的な生き方を通して霊的成長を実践するためのトレーニングセンターのようなものです。地上世界で様々な失敗や間違いや困難を体験することによって「霊的成長」を図り、霊界で生活するための基本的な霊性を習得すること。これが地上世界で生きることの意味です。

人間には自由意志が備わっているため、地上世界で物欲・金銭欲を追及して利己主義の人生を貫くのも、道義心に背いて詐欺で得た金で放蕩三昧のするのも全て自己責任です。しかし「You reap what you sow.(自分で蒔いた種は自分で刈り取る)」、「天網恢恢疎にして漏らさず」との諺とおり、地上人生で果たせなかった悪事の責任は、死後自らが大変な苦しみをもって償うことになります。地上世界から霊界に移行したからといっても、因果律の働きは絶対であり、誰一人として自らの責任から逃れることはできません。

祖母が話してくれた死後の世界の話の中に「浄玻璃の鏡」というものがありました。浄玻璃の鏡とは、死者の生前の行為を全て映し出す閻魔王庁の鏡のことですが、そんなものは法話の中だけの話だと思っていました。しかし、実は霊界にもこれと全く同じような「鏡」が存在します。それを知った時には、さすがに忸怩たる思いに囚われました。私自身、口が裂けても決して他人には言えないような失敗をしでかしてしまったたことも一度や二度ではないからです。しかし、過去の行為は消し去ることはできません。いくら悩んでも悔やんでもどうしようもないのです。

シルバーバーチは過去に犯した間違いについて次のように述べています。
「過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間違いを犯しそれから学ぶために地上へやって来たようなものです。過ぎ去ったことは忘れることです。大切なのは今現在です。今、人のためになることをするのです。どんな形でもよろしい。自分の置かれた物的環境条件から考えて無理でない範囲のことを行えばよろしい。先のことをあまり考えすぎてはいけません。」
( ステラ・ストーム編 近藤千雄訳 『シルバーバーチの霊訓(九)』  スピリチュアリズム普及会 P193-194)

よく言われているように人生には失敗がつきものです。大切なことは失敗から教訓を学び、それを糧に成長することです。もしスピリチュアリズムとの出会いがなかったならば、私も今生では何の価値も見いだせないまま、人生を終えることになったと思います。人生の価値とは何か?人生の目的は何か?について明確にその回答を示してくれるのは「シルバーバーチの霊訓」以外には存在しません。改めてスピリチュアリズムに導かれたことの恩恵を実感しています。