シルバーバーチの視点から見たキリスト教

シルバーバーチの視点
シルバーバーチは、ナザレのイエスを「大霊の偉大な使者」として深く敬いながら、その名のもとに築かれてきたキリスト教会の歩みには、きわめて厳しい視線を向けています。
シルバーバーチの目に映っているのは、イエスの純粋な教えから大きく逸脱し、その上に後世の人間が人工的な教義と儀式と権力構造を積み上げてきた宗教の姿です。
「今もしナザレのイエスが地上へ戻ってきて、自分の名のもとに説かれている教えを聞いたら、一体何のことだか理解できないでしょう。その多くはイエスが説いたものではなく、後世の聖職者たちがでっち上げたものだからです。」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの霊訓(十一)』四章 「既成宗教のどこが間違っているか」
イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの霊訓(三)』六章 「イエス・キリストとキリスト教」
シルバーバーチのこの言葉には、静かな憤りと深い嘆息にじんでいます。
教義、いわゆる信条に対しても、シルバーバーチは鋭い批判を加えています。
「いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争を仕掛け、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。魂を束縛するもの 、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。」
潮文社『シルバーバーチの霊訓(十二)』十章 「宗教」
そして極めつけは、次のような言葉です。
「教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠しをしてしまうのです。」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの教え・上』八章 「地上宗教の間違い」
シルバーバーチが問題にしているのは、何を信じるかという表面的な違いではありません。むしろ、信仰の名のもとに魂の自由が奪われ、権威への依存や服従を通して支配が正当化されていく、その構造そのものです。
さらにシルバーバーチは、
「イエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの教え・上』八章 「地上宗教の間違い」
とまで言い切ります。イエスを偶像化し、その偶像を利用して権威を強めてきた教会の歩みに対する、痛烈な批判です。
しかし、この批判の射程はキリスト教のイエス崇拝の問題だけにとどまりません。組織宗教が持つ構造的な欠陥そのものを、根底から問うものでもあるのです。
「地上の宗教はすべて失格」と断じたのも、その文脈の中で理解すべきでしょう。シルバーバーチが糾弾しているのは、キリスト教だけではありません。仏教、イスラム教、ヒンドゥー教を含め、あらゆる組織宗教が「教義と儀式で魂を閉じ込める」という、同じ過ちを繰り返してきたという、包括的な指摘なのです。
とはいえ、人類の歴史にこれほど深く、そして広範囲に「宗教の名のもとに流された血」と「魂の束縛」の痕跡を刻みつけてきたのは、とりわけキリスト教であることも事実です。シルバーバーチはこうも言います。
「然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。」
スピリチュアリズム普及会『シルバーバーチの霊訓(五)』六章 「イエスはいま何をしているか」
「私がキリスト教に我慢ならないのは、自ら用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、すでに地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえれば、キリスト教と銘打ちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、はるか彼方の天国へ連れて行ってしまっております。それが我慢ならないのです。」
潮文社『シルバーバーチの霊訓(十二)』十章 「宗教」
イエスの名を掲げながら、イエスの教えから最も遠ざかっていく。 その矛盾に対する、これ以上ないほどストレートな告発と言えるでしょう。
こうしたシルバーバーチの言葉を手がかりに、世界最大の宗教であるキリスト教が、その長い歴史の中でどのような負の側面を示してきたのかを、次回から3回に分けてたどっていきたいと思います。

