キリスト教史の暗部-1

はじめに

本ブログでは、キリスト教の負の歴史を時代ごとに振り返っていきます。初回となる今回は、「ローマ帝国における転換」「十字軍遠征の暗部」「異端審問の暗黒時代」の3つの時代を取り上げます。

ローマ帝国における転換——キリスト教の公認と国教化が生んだ最初のねじれ(4世紀)

キリスト教がローマ帝国で公認され、その後に国教化されると、歴史の風景は大きく塗り替えられていきます。

それまでネロ帝やディオクレティアヌス帝の大迫害のもとで、地下墓所(カタコンベ)に身を潜めながら信仰を守ってきたキリスト教徒たちは、コンスタンティヌス帝による313年のミラノ勅令によって、ようやく信仰の自由を認められました。迫害される少数派だった彼らは、一転して皇帝の保護を受ける存在となり、やがて帝国秩序を支える側へと組み込まれていったのです。

そして380年、テオドシウス帝によるテッサロニキ勅令により、キリスト教は帝国の正統信仰として位置づけられます。さらに391年から392年にかけて、異教の神殿破壊や古い信仰の禁止が徹底されていきました。かつて破壊される側だったキリスト教徒が、今度は破壊する側に回ったのです。ローマやギリシアの伝統的な神々の神殿や彫刻像は打ち壊され、皇帝崇拝やミトラ教などの古い信仰は次々と禁止され、弾圧されていきました。

ここに浮かび上がるのは、迫害されていた側が迫害する側へと転じる、権力的な逆転です。昨日まで自由を求めていた者が、今日は他人の自由を制限する。異なる祈りの形は共存の対象ではなく排除の対象となり、迫害の痛みを知っていたはずの人々が、その痛みを政治の力で再生産していったのです。権力を手にした人間の暗い性(さが)が、ここでは極めてわかりやすい形で歴史の表面に現れています。

同じ流れの中で、キリスト教の公式教義もまた、皇帝権力を背景に整えられていきました。325年のニカイア(ニケーア)公会議では、父なる神と子なるキリストは同一本質であるという立場が正統とされ、それを否定するアリウス派の主張は退けられました。
ただし、この時点で三位一体の教義が完成したわけではありません。その後もキリストの神性や聖霊の位置づけをめぐる論争は続き、381年のコンスタンティノープル公会議で、ニカイアの方針が再確認される中で、三位一体の枠組みも正統教義として固められていきました。信仰をめぐる議論は、いつしか国家権力を巻き込んだ教義統一の問題へと変わり、教会は祈りの場であると同時に、何を正しいと認めるかを決める制度の場にもなっていったのです。

父なる神と子なるキリスト、そして聖霊を、三つの位格をもつ唯一の神として捉える三位一体の教義は、後世になるにつれて、複雑で理解しがたい思想体系へと姿を変えていきました。まさに、シルバーバーチが批判する「人工的な教義」の典型と言えるでしょう。愛と奉仕を語るだけで十分に伝わったはずのイエス本来のシンプルな教えは、ここで一気に、難解さばかりが肥大した排他的な神学へと組み替えられていきます。そして信仰そのものもまた、少しずつ、しかし確実に変わっていきました。何を愛するかより、何に同意するか。どう生きるかより、何を正統と認めるか。そこでは、魂の自由よりも教義の整合性が重んじられやすくなります。

その結果、いつの間にか目的と手段が入れ替わっていきました。本来は人を自由へ導くはずの信仰が、「正統教義」への服従を迫る道具となり、弱者を守るはずの教会組織が、自らの維持と拡大を優先する巨大な権力装置へと変わっていったのです。イエスが示した「愛」と「奉仕」よりも、「教義への同意」と「組織への忠誠」のほうが重んじられる構図が、そこに形づくられていきました。ここにこそ、キリスト教が本来の目的から逸れはじめた、最初の大きな「ねじれ」があったのではないでしょうか。

このように、本質を離れた教義が積み上げられていくなかで、シルバーバーチはその意味そのものを問い直します。

「三位一体説が宗教と何の関係があるのでしょう。無原罪懐胎(聖母マリアはその懐胎の瞬間から原罪を免れていたこと)が宗教と何の関係があるのでしょう。」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの霊訓(三 )』十二章 「神とは」

「もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの霊訓(十一 )』四章 「既成宗教のどこが間違っているか ─ キリスト教を中心に」


十字軍遠征の暗部——聖地解放の名で正当化された殺戮と略奪(11世紀後半〜13世紀)

中世の十字軍では、「聖地を解放せよ」という掛け声の陰で、数え切れない血が大地に吸い込まれていきました。名目は、当時イスラム勢力の支配下にあった聖地エルサレムの奪回でした。しかし現実には、そこにたどり着く以前から、無関係な人々がすでに犠牲になっていました。

1096年に始まった第1回十字軍は、遠征の途上、現在のドイツ・ライン地方の諸都市で、ユダヤ人共同体を襲撃しました。十字軍に加わった一部の集団はユダヤ人を「キリスト殺しの民」とみなし、各地で殺戮や略奪を繰り返しました。1099年のエルサレム占領の際にも、ムスリムだけでなくユダヤ人もまた殺戮の犠牲となり、巡礼の終着点であるはずの聖地は、祈りの場ではなく流血の場へと変えられました。しかし十字軍の側は、自分たちこそ神の正義のために戦っている信じ、その流血すら聖戦の勝利として正当化していきました。聖地奪還の名目の裏で、信仰はすでに暴力の正当化へと転じていたのです。

その転落を決定づけたのが、教皇インノケンティウス三世の呼びかけにより1202年に始まった第4回十字軍です。ここで起きたのは、単なる一時的な逸脱ではありません、十字軍そのものが、本来の目的を見失っていたことを示す事件でした。

第4回十字軍は本来、海路でエジプト方面に向かい、そこを拠点にエルサレム奪回を目指す計画でした。そのための船団と兵員輸送は、当時の海洋都市国家ヴェネツィアが請け負っていました。ところが、十字軍側は約束した費用を払い切れず、不足分の埋め合わせとしてヴェネツィアが求めたのは、ザラ攻略への協力でした。ザラ(現在のクロアチアのザダル)はアドリア海沿岸の要地で、かつてはヴェネツィアの支配下にありながら、その統制を離れてハンガリー王の保護下に入っていたカトリック都市でした。こうして十字軍は、聖地を目指すはずの軍勢でありながら、まずヴェネツィアの要請に従って、同じキリスト教世界の都市を攻撃することになったのです。

さらに、ドイツ王フィリップのもとに身を寄せていたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇子アレクシオスは、父イサキオス2世の復位と、自らの即位のために十字軍へ支援を求めました。その見返りとして、資金援助と軍事協力に加え、ギリシア正教会をローマに服従させることまで約束しました。十字軍指導部はこの提案を受け入れ、ザラ攻略の後、ヴェネツィア艦隊とともにコンスタンティノープルへ向かいました。1203年、首都に介入した十字軍の圧力のもとでイサキオス2世が復位し、皇子もアレクシオス4世として共同皇帝に擁立されました。ところが、約束された支払いは十分に果たされず、十字軍への反発も重なって政変が起こります。翌1204年、十字軍は新政権との対立の末、再びコンスタンティノープルを攻撃し、これを陥落させました。

コンスタンティノープル占領のあとに待っていたのは、敬虔な巡礼の祈りではなく、徹底した略奪でした。教会からは聖遺物や祭具が持ち去られ、修道院や宮殿も荒らされました。十字軍はその廃墟の上にラテン帝国を樹立し、東西教会の亀裂はいっそう深まりました。十字架の旗を掲げた軍勢が踏みにじったのは、異教徒の都ではなく、同じキリスト教徒の都だったのです。聖地回復を掲げた遠征は、この時点ですでに本来の目的から大きく逸れて、信仰のための戦いという建前すら、ほとんど残っていませんでした。

ここから明らかになるのは、組織化された宗教の教義と権威が、暴力を公然と正当化してきたという事実です。誤った教義に基づく信仰が体制と結びつくと、物欲、金銭欲、名誉欲、権勢欲といった人間の欲望までもが、神の名によって飾り立てられていきました。そこにあったのは、「汝の敵を愛せよ」と説いたイエスの教えとは、あまりにもかけ離れた現実でした。

それは、シルバーバーチが「偽りの教義を土台として築かれた上部構造」と呼んだ、宗教組織の暗部にほかなりません。この構造は、およそ二百年に及ぶ十字軍遠征が終わったあとも、消えることはありませんでした。やがてキリスト教世界では、対立の焦点が聖地から教義と権威へと移り、同じイエスの名を掲げる者どうしが、いっそう深刻な争いを繰り返していくことになります。

そうした歴史を前にすると、シルバーバーチの次の言葉は、いっそう重い響きをもって聞こえてきます。

「キリストの名にちなんで出来たキリスト教会が相も変らずキリストそのものを裏切り続けている事態を見て、キリストご自身がどれほど悲しい思いをされているか、一度その人たちに見ていただきたい気持ちです。」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの霊訓(九)』八章 「宗教」


異端審問の暗黒時代——救済の名による弾圧の始まり(13世紀〜)

13世紀、異端への弾圧が強まるなかで、異端と名指しされたカタリ派を標的にしたアルビジョワ十字軍は、その残虐さによって今なお語り継がれています。ここで注目すべきなのは、異教徒ではなく、同じキリスト教の内部に向けて「聖戦」が発動されたという点です。信仰を守るはずの宗教が、教義の違いを理由に同胞へ刃を向ける。隣人愛を説きながら、隣人を殺戮する。この倒錯は、すでにこの時代には隠せないほど露骨になっていました。

この十字軍に教皇特使として加わっていたシトー会修道士アルノー・アマルリックには、ベジエ攻略の際に「異端者も正統派も皆殺しにせよ。主はご自分の者を知っておられる」と語ったとされる言葉が伝えられています。これは、救済の名を借りて無差別虐殺を正当化するという恐るべき発想です。
もっとも、この発言は同時代の直接史料に基づくものではなく、後世の伝承です。それでもなお、この言葉が語り継がれてきたのは、当時の冷酷な実態をあまりにも見事に要約しているからでしょう。実際、ベジエでは住民が区別なく殺害されたと伝えられており、この言葉は史実そのものというより、その時代の空気を凝縮したものとしての意味を持っていると言えるでしょう。

本来なら祈りの言葉を口にするはずの修道士が、十字架を掲げて「皆殺し」を命じる。救うために殺し、愛の名で排除し、正しさの名で命を奪う。このねじれは、救済を掲げながら逆に暴力を正当化していく教会権力の深い矛盾を、象徴的に示しているように思えます。

この流れのなかで本格化したのが、異端審問です。これは教皇庁が異端の摘発と裁断のために整えた制度であり、主にドミニコ会などの修道士が各地を巡回して審問官を務めました。
審問官が現地に入ると、自発的な申告を促す恩恵期間が設けられることもあったものの、いったん容疑をかけられれば、疑いを完全に晴らしてそこから逃れることは困難でした。尋問や拘禁、ときに拷問が用いられ、被疑者に著しく不利な手続きが、教義の防衛の名目で運用されました。悔悛すれば悔悛者であることを周囲に示すための黄十字の着用や投獄で済むことも多かった一方、最後まで自説を撤回しない者や再犯者は教会から世俗権力へ引き渡され、火刑の執行は世俗側に委ねられました。異端審問は、教会みずからが直接火を放つことなく、「魂を救う」という言葉で排除と処罰を正当化する仕組みでもありました。

異端排除への執念は、生者にも死者にも等しく向けられました。
プラハ大学の総長を務め、教会の腐敗を公然と批判したヤン・フスは、のちに宗教改革の先駆者の一人と見なされる人物です。ところが彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントの安全通行証を得て1414年にコンスタンツで始まった公会議に赴いたにもかかわらず、異端として断罪され、聖職者としての地位を剝奪されたのち、火刑に処されました。真理を議論によって確かめるのではなく、異論そのものを焼き払う。そこに見えているのは、教義の防衛がすでに説得ではなく、威嚇と処刑によって支えられていたという現実です。

さらに、教皇権の絶対化と聖職者の腐敗を批判し、ラテン語聖書の英語訳を進めたとされるジョン・ウィクリフは、フスに影響を与えた思想家としても知られています。しかし彼は、1384年に没したのち、同じコンスタンツ公会議で死後に異端と宣告され、その著作は焼却すべきものと決定されました。そして1428年には、墓から遺骨が掘り起こされて焼かれ、遺灰は川へ捨てられました。思想への断罪にとどまらず、死者にまで処罰を及ぼすその姿は、信仰の名のもとで異論を徹底して封じようとした教会権力の異様さを物語っています。

異端者を火刑にし、死者の骨まで掘り起こして焼く。人間の霊性を高めるどころか、むしろ暴力と分断を生んできた教義や信条への忠誠が何をもたらしたのかを、シルバーバーチは次のように述べています。

「過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を一インチたりとも増しておりません。逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、果ては家族間にも無用の対立関係を生みました。」
スピリチュアリズム普及会 『シルバーバーチの霊訓(四)』九章 「宗教の本質と子供の宗教教育のあり方」



次回はさらに、スペイン異端審問と魔女裁判、宗教改革と宗教戦争、そして大航海時代と植民地支配へと目を向けていきます。キリスト教がいかにして支配の道具となったのか。その歴史を、次回もう少したどってみたいと思います。