キリスト教史の暗部-2

異端審問から植民地支配へ

前回のブログでは、「ローマ帝国における転換」「十字軍遠征の暗部」「異端審問の暗黒時代」までを取り上げました。
今回は、「スペイン異端審問と魔女裁判」「宗教改革と宗教戦争」「大航海時代と植民地支配」を振り返ってみたいと思います。

愛を掲げた恐怖の連鎖——スペイン異端審問と魔女裁判(15世紀後半〜)

15世紀後半、スペインでは王権と教会が強く結びついてスペイン異端審問が始まりました。1478年、カトリック両王として知られるフェルナンド王とイサベル女王の要請を受けて設置されたこの制度は、教皇の認可を得つつも王権の統制下で運用され、宗教的正統性の維持と国家統一の手段として機能しました。

中世の教皇庁主導の異端審問が、主にカタリ派など教義上の異端を対象に、各地を巡回する審問官によって流動的に行われたのに対し、スペイン異端審問は中央集権的な常設機関である最高評議会を持ち、王権の直轄に近い形で運用されました。手続きは中世のものを踏襲しつつ、尋問や拷問による自白の強要、財産没収、公開の見せしめを特徴としていました。

とりわけキリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)や改宗ムスリム(モリスコ)が重点対象とされ、「血の純潔」という血統観念が強調された点が大きな違いです。形式上は同じ信仰を告白していても、異教徒の祖先をもつという出自への疑念だけで激しく追及され、差別と排除が強められていったのです。

やがて近世に入ると、隣人愛と救済を説くはずのヨーロッパのキリスト教社会は、作物の不作や疫病の流行、戦乱や経済的困窮といった暮らしの不安の原因を自らの統治や社会の歪みに求めることなく、それを「悪魔と結託した魔女」のせいにするという、ひどく都合のよい責任転嫁の方法を作り上げました。
魔女の証拠とされたのは、悪魔との契約や身体の印といった曖昧なものばかりでなく、猫などの小動物を飼っていることのような、どうとでも解釈できる話まで含まれていました。要するに、疑う側がその気になれば、ほとんど誰でも罪人にできたのです。

密告は敬虔さや信仰の証という美名のもとで奨励され、近所の住民や知人が村や町の当局、教会関係者、世俗の裁判官などに対して「あの人が魔女だ」と告発する形で行われました。告発の矛先はまず社会的に弱い立場の人びとへ向かい、とりわけ未亡人や孤立した女性たちは頻繁に標的になりました。いったん裁判が始まれば、拷問で「共犯者」の名を吐かせ、その供述をもとに次々と容疑者を生み出していく。まさに信仰の名を借りた恐怖の連鎖です。財産は没収されることが多く、これが当局の動機の一つになる場合もありました。

後世の研究では、魔女裁判の犠牲者は4万から6万ほどと推計されていますが、一人ひとりに家族と生活があり、その「ただ一人の人生」が炎の中で失われた事実は、数字では決して測りきれません。それでも教会は、自らの行為を「悔い改める」どころか、しばしば「魂の救済」という言葉で包み込みました。

イエスが語ったはずの愛と赦しは、教会の手に渡ると、弱い者を守る言葉ではなく、弱い者を裁くための言葉へと変えられていったのです。
愛を掲げながら火刑で人を焼き、正義を唱えながら異論を封じ、福音を語りながら恐怖を統治の道具にする。そこにあったのは単なる信仰の堕落ではありません。イエスの教えを看板に掲げながら、その中身を組織の都合で完全に裏返していく、徹底した背信でした。

もしそれでもなお、これを信仰と呼ぶのなら、それは福音の実践ではなく、神の名を借りた支配の仕組みにほかなりません。
結局そこで守られていたのは、魂の救済という崇高な理想などではありません。教会組織の威信であり、権威であり、自らの秩序に逆らう者を沈黙させる権力そのものでした。

イエスの教えを裏切っただけではない。その教えを自分たちの権勢欲と財産欲のために、あからさまに利用した。そう見るほうが、歴史の実態にははるかに近いのではないでしょうか。


信仰を掲げた殺戮の時代——宗教改革と宗教戦争 (16世紀前半〜17世紀)

1517年、マルティン・ルターが免罪符の販売を批判する九十五箇条の論題を公表したことは、教会の腐敗に対するきわめて正当な抗議でした。金銭によって「罪の赦し」が得られるかのような宗教的商業主義に対し、良心の立場から異議を唱えた重要な契機だったと言えるでしょう。実際、当時の教会は聖職売買や聖職者の腐敗といった深刻な問題を抱えており、ルターの告発は単なる反抗ではなく必然的な異議申し立てでもありました

けれど、その後の宗教改革の歩みは、「正義の告発」がそのまま、より良い世界へ結びついたわけではありませんでした。教義上の対立はいっそう先鋭化し、カトリックとプロテスタントのあいだでは、やがて激しい宗教戦争が相次いで起こりました。フランスでは1562年から1598年にかけてユグノー戦争が続き、1572年には聖バーソロミューの虐殺という凄惨な事件まで生み出しました。

さらに1618年から1648年にかけての三十年戦争では、神聖ローマ帝国内のドイツ地域を主戦場として、戦火は周辺諸国を巻き込みながらヨーロッパ各地へ拡大していきました。これは単純な「信仰の争い」というより、王権、領土問題、国際政治が宗教対立に寄生した国際戦争でもあり、長期の戦争の結果、飢えや疫病、略奪、虐殺のなかで数百万人ともいわれる膨大な数の民衆が犠牲となりました。ウェストファリア条約締結に至るまで、新旧両派の争いは長くヨーロッパの政情を不安定にさせたのです。

同じ「キリスト教」を名乗りながら、互いに相手を「真理から外れた者」と断じて争い、ついには命まで奪い合う。双方が十字架を掲げ、兵士たちは「神の栄光」という言葉を唱えている。けれどそこで繰り広げられていたには、イエスの願いとは裏腹な悲惨な、そしてシルバーバーチが語る宗教の本質とは正反対の世界でした。教義をめぐる争いそのものが人々を縛り、兄弟同士を敵へと変え、流血を生み出す原因となっていったのです。宗教が人間を自由へ導くどころか、教義を掲げるほど残酷さに無自覚になっていくのだとすれば、それは救いの道などではなく、神の名を借りた支配の仕組みにほかなりません。

本来なら、信じる内容の違いを超えて一致できたはずの「愛」と「奉仕」は、教義の名のもとに無惨にも踏みにじられてしまいました。しかも皮肉なことに、腐敗した教会への抗議として始まった改革は、やがて別のかたちの排他性と断罪を生み、結果として「何を信じるか」以上に「誰を異端とみなすか」が社会を動かす時代を招いてしまいました。

ここに見えるのは、教義への執着そのものが人間の良心を鈍らせ、自由を奪い、暴力を正当化していくという、きわめて重い歴史の教訓です。


文明を掲げた収奪の航路——大航海時代と植民地支配 (16世紀〜18世紀末

十六世紀前後の大航海時代、スペインやポルトガルの征服者(コンキスタドール)たちは、甲板の上に十字架を高く掲げながら新大陸へ向かいました。「異教徒を救済し、文明化する」と胸を張りつつ、実際にはアステカやインカの豊かな文明を踏みにじり、先住民を虐殺し、奴隷として鎖につないでいったのです。金銀を略奪し、聖書を片手に銃を構え、「神の栄光のため」と叫んだその結果、先住民社会は無残に崩壊し、疫病と虐待の中で数え切れない命が消されていきました。

この惨状は、同時代の聖職者によっても告発されています。ドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサスは、1542年にまとめ1552年に公刊した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で、スペイン人による虐殺・略奪・強制労働の実態を克明に訴え、先住民を「救済」の名で踏みにじる征服戦争を厳しく批判しました。彼は平和的な布教と先住民の権利を主張しましたが、その告発は植民地支配を止める力とはならず、むしろヨーロッパでは反スペイン宣伝に利用されました。こうして十字架を掲げた征服の欺瞞は、当時すでに内部から暴かれていたにもかかわらず、長く続きました。

しかも、この征服の論理は新大陸の先住民支配にとどまらず、1444年ごろに始まった大西洋奴隷貿易のなかで、アフリカ人の奴隷化を正当化する思想として受け継がれていきました。とりわけ18世紀後半の最盛期には、その構図はいっそう露骨になっていきました。

創世記9章のカナンの呪いの物語は、後の時代に都合よく拡大解釈され、ハムの系統がアフリカ人に結びつけられることで、アフリカ人奴隷化の根拠として利用されました。さらに、エフェソの信徒への手紙6章5節の「奴隷たちよ、主人に服従しなさい」という一節も、黒人奴隷制を正当化する聖書の言葉として持ち出されました。教会の一部はそれに異を唱えるどころか、むしろ積極的に論拠を与え、聖職者自らその秩序を支えたのです。

こうして見ていくと、恐ろしい現実が浮かび上がります。キリスト教は「隣人愛」を語りながら、その解釈ひとつで、搾取も虐殺も「神の御意志」と言い換えられてしまいます。 愛の名において、隣人愛の範囲はどこまでも都合よく狭められ、「神を信じない者」「肌の色が違う者」「文明が劣っていると決めつけられた者」は、愛の外側に追い出されていく。これこそ、キリスト教の名のもとに繰り返されてきた、最も暗い欺瞞の一つではないでしょうか。

次回記事では、17世紀に無限宇宙や無数の世界を語ったブルーノ、ガリレオ、デカルトらが教会に沈黙させられた歴史を扱います。禁書、異端審問、火刑、刊行見送りといった抑圧は、教会が権威と固定された聖書解釈を守るために行ったものでした。シルバーバーチと再臨のイエスの視点から、本来の宗教は愛・奉仕と真理探究にあると対比し、「これ以上考えるな」と命じる権利は誰にあるのかを問います。