キリスト教史の暗部-3

前回の続きから
前回のブログでは、「スペイン異端審問と魔女裁判」「宗教改革と宗教戦争」「大航海時代と植民地支配」までを取り上げました。今回は、「教義が奪った思索の自由」を振り返るとともに、キリスト教が急進左派勢力の攻撃対象となった90年前の「スペイン内戦と赤色テロ」を取り上げます。
無限宇宙を語った罪——教義が沈黙させた思索者たち(17世紀)
宗教とは、本来、人間の知性を封じ込めるためのものではありません。むしろ、愛と奉仕を通して霊的に成長し、あわせて知性を正しく働かせながら、自ら真理を求め続けることを促すものであったはずです。「これ以上考えてはならない」と一方的に限界を定め、探究心を抑え込もうとする態度は、イエスの精神とは到底相容れるものではありません。
しかし教会は、教義を守るという名目のもとで、しばしば人間の「知りたい」「探求したい」という欲求を抑え込んできました。コペルニクスの地動説が長く受け入れられなかったのも、その典型です。1616年には、彼の著書『天球の回転について』が、「訂正されるまで」という条件付きで禁書目録に載せられました。同じ年、ガリレオもベラルミーノ枢機卿から、地動説を保持しても擁護してもならないと警告されます。宇宙をより正確に理解しようとする試みは、この時点で「聖書解釈にそぐわない」として排除されていったのです。
それでもガリレオは研究を続け、1632年に『天文対話』を刊行しました。これが問題視され、翌1633年、異端審問で有罪とされ、自説の撤回を強いられます。その後は自宅軟禁の身となり、自由を奪われたまま、1642年に生涯を終えました。教会当局が守ろうとしたのは、観測によって見えてきた宇宙ではなく、すでに固まっていた聖書の読み方と、それを支える権威だったのでしょう。
ガリレオが1633年に有罪とされると、その影響は、直接裁かれなかった思想家たちにも及びます。ルネ・デカルトはその知らせを受け、ほぼ完成していた宇宙論の草稿『世界論』の刊行を見合わせました。火刑や軟禁にまで至らなくても、ひとたび「ここから先は許されない」という線が引かれれば、思索は内側から萎縮していくのです。
その少し前の1600年には、宇宙の無限性と無数の世界を語ったジョルダーノ・ブルーノが、ローマの広場で火刑に処されています。最後には口枷をはめられ、十字架を突きつけられても顔をそむけ、炎の中で沈黙を強いられました。ブルーノの罪は、「神学が決めた世界の枠」を越えて考えたことにほかなりません。固定的で階層的な宇宙像を絶対視する当時の教会にとって、それは権威そのものを揺るがす思想だったのです。
シルバーバーチの視点から見れば、イエスの教えは本来こうした抑圧とはまったく別物であり、愛と奉仕を通して霊的成長を促し、理性が納得しないものを潔く捨てる自由を求めるものでした。にもかかわらず、教会は教義を守るために、ブルーノやガリレオのような「問い続ける者たち」を次々と裁いてきました。
教義が「ここから先は禁区だ」と境界線を引いた瞬間に、真理を求める自由は静かに奪われていきます。「神の栄光」を守るためだと言いながら、実際に守っているのは教会自身の権威にすぎないのです。その矛盾に気づいたとき、私たちは問わずにはいられません。いったい誰が、いつ、どのような権利で、人間に対して「それ以上考えるな」と命じることができるのか、と。
スペイン内戦と「赤色テロ」――宗教が排除の対象となったとき(20世紀)
これまで見てきたように、キリスト教史には、十字軍や異端審問、植民地支配のように、教会が権力と結びついて加害者となった局面がある一方で、教会と聖職者が急進左派の攻撃対象となり、聖職者が大量に殺害された局面もあります。1936年から1939年にかけてのスペイン内戦は、そのことが極端な形で噴出した事例の一つです。
この内戦では、コミンテルンの関与のもとで編成され、共和国側に加わった外国人義勇兵からなる国際旅団の参戦がしばしば注目され、反ファシズムの戦いとして語られることが少なくありません。ですがその一方で、比較的見落とされがちなのが、共和国側支配地域で生じた反聖職者暴力です。こうした暴力のピークは、国際旅団が本格的に活動を始める前の1936年夏に、すでに大部分が現れていました。
1936年2月、第二共和政下のスペイン総選挙で、左派共和主義者、社会主義者、共産主義者などを中心とする左派陣営が勝利し、人民戦線政府が成立しました。その結果、これまで中断や後退を繰り返していた農地改革が再び前面に押し出され、大土地所有の是正と土地を持たない農民の救済が主要な課題となる一方、カトリック学校への制限や政教分離の方針も改めて強調され、春以降は教会襲撃や関連施設の占拠、農村での土地占拠も相次ぎました。保守層はこれに強く反発し、社会は急速に分極化しました。
こうした対立の深まりのなかで、同年7月、陸軍を中心とする軍部の一部が政府打倒を目指して反乱を起こしました。後にスペインの国家元首となるフランコ将軍は、その主要人物の一人として台頭し、10月1日には反乱軍側の最高司令官となりました。国家の統治機能が大きく揺らぎ、反乱軍が掌握できなかった地域では、アナキスト、社会主義者、共産主義者などを含む急進左派の民兵や革命委員会が実権を握りました。アナキストは国家そのものの廃止を目指し、共産主義者は国家権力を革命の手段とみなす点で異なります。しかし、教会を旧体制や反革命の象徴と見なす点は共通していました。そのため、こうした統治の空白のなかで、これらの地域では後に「赤色テロ」と呼ばれる激しい反聖職者暴力が発生しました。
「赤色テロ」による聖職者の犠牲は内戦初期に集中しています。7月18日以後の約2週間で861人、8月だけで2,077人が殺害され、最初の2か月で約3,400人に達したとされています。内戦全体での聖職者の犠牲者数は6,832人にのぼり、司教13人、教区司祭と神学生4,172人、修道士2,364人、修道女283人です。(聖職者兼歴史家のアントニオ・モンテロ・モレノの調査結果)
暴力の中心となったのは、左派民兵や革命委員会による即時処刑と宗教施設の破壊でした。教会や修道院への放火、聖像や祭壇の破壊、宗教学校や修道院の接収が各地で起こり、一部では、遺体の損壊に加え、墓地や教会墓所から掘り出した修道士や修道女の遺骸を人前にさらすような冒瀆行為も報告されています。東部のバルバストロ教区では、140人の司祭のうち123人が犠牲になったとされ、地域によっては聖職者のほとんどが命を落としました。共和国政府はこうした暴力を十分に抑えきれず、スペイン内戦期の反聖職者迫害は、西欧近代史の中でも大規模な事例の一つとみなされています。
この暴力は、内戦の混乱だけで生じたものではありません。1931年、王政に代わって第二共和政が成立すると、政教分離や教育改革が進み、政権と教会、保守層との対立はすでに先鋭化していました。こうした背景のもとで、内戦下では聖職者や教会施設が、抑圧的な権威の一部と見なされて攻撃の対象となりました。とりわけアナキストは教会を国家と並ぶ支配装置と捉え、共産主義者もまた旧秩序を支える存在と見なしました。
これに対して教会側は、内戦を無神論的な革命への抵抗と捉え、フランコ将軍率いる反乱軍を「十字軍」として支持しました。スペイン内戦は、宗教が体制との関係しだいで、保護される側にも排除される側にもなりうることを、きわめて鮮明に示した事例だといえます。
次回の最終回では、シルバーバーチの神学批判を手がかりに、宗教が本来の使命を離れ、教義と権威の維持へと傾いていった歩みを振り返ります。さらに、文明の進歩とは対照的に、人類の霊的進化は深く立ち後れてきたというイエスの言葉を踏まえ、いま本当に求められているものは何かを、宗教と信仰の原点に立ち返りながら静かに問い直したいと思います。


